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錦生地名の由来 |
地名の由来には諸説ありますが、以下は「名張市史」及び「錦生の歩み 30年史」からの抜粋です
錦生(にしきお)
錦生の地名は「錦の旗殿」の伝説からきている。垂仁天皇のとき、倭姫命 (ヤマトヒメノミコ
ト)が天照大神の神体を奉じて、伊勢遷座の途次、名張市守宮に入り一時安置された。
この時、本村に機殿(はたどの)を建て、大神の御衣(錦)を織らせたという伝説から錦生と
いう地名が起こったと言われている。
@黒田(くろだ)
「黒」は「古」と同系との説もある。
早くから開けた“古い田”という意味で黒田の名が起こったのだろうか。
黒田の地名は起源的には、今の黒田地区だけを指しているのではなく、平安時代の初期には
坂之下まで含めて黒田といっていたことを考えると「小高いところ」を意味する壟(ロウ)を
語源として山麓の傾斜地に広がる田という意味での壟田に黒の字があてられたとも考えられる。
平安時代にはいり東大寺領黒田庄が成立してからは庄支配の中心となり政所(政庁)がおかれた。
A結馬(けちば)
結馬という地名の語源には二つの説がある。
(1)源頼政が桶子(おけご)神社に詣ろうとしてこの地に来たとき、乗っていた馬の手綱を
木に繋いだのでこの名がうまれた。
(2)俊乗坊重源が、伊勢参向の途次、黒田庄に一泊し、大般若経を運ぶ馬をこの地に繋いだ
ところからうまれた。
源頼政説は事実に疑いがあり、俊乗坊重源説は事実に基づいているが、確証はない。
『黒田庄誌』は、結願の場であったことから、結願場(または結縁場)が結場となり、結に馬
があてられたのではないかとみている。
B井手(いで)
宇陀川上流から水をひき、桶子神社付近に井堰があったのでこの名が起こったと言われている
C安部田(あべた)
坂之下・谷出・小屋出・鹿高の四小字に分かれている。
本来の安部田村は谷出・小屋出の地で、鹿高は安部田の支邑であった。
6世紀初頭の壮大な石室古墳も残り、古くから開発された地である。これらの古墳は豪族阿部
臣一族の墳墓と推定され、安部田の地名は、“阿部氏の田”に由来する。
坂之下は俗に「サカンソ」と呼ばれているが、坂裾の転である。
名張から奈良へ行く重要路は、笠間峠を越す路線であったが、この峠に上がる坂の下に発達し
た集落なので、この地名が生まれた。
D矢川(やがわ)
文献に出てくる矢川の地名は、あるいは郷名として、あるいは村名として、広狭さまざまであ
る。 昔の早川(はやかわ=現在の赤目町滝川)の(は)を略して矢川といったのが始まりだと
考えられる。
矢川郷は古くは周知(すち)郷と称し、周知稲置のおかれた早期の開発地帯である。矢川郷に
は、矢川・一ノ井・長坂の三集落があり、これが江戸時代まで矢川郷として続いた。
E上三谷(かみみたに)
谷合の山間集落によくつけられる地名で、全国に例が多い。
蔵持地区の下三谷に対し上三谷という。
F竜口(りゅうぐち)
地名の由来は「竜神口」かの意と思われる。
室生には平安時代から有名な竜穴神社(竜神)があり、雨の神として参詣者が多かった。
名張郡方面から、この社に参拝するには竜口を通らねばならず、地理的に竜神への入口にあた
っている。
「竜神口」が省略されて竜口になったと思われる。
また、竜口は南北(大和・伊賀)の区別がなく、一体の村として伊賀国名張郡に属していた。
寛治2年、名張郡司丈部近国はこの方面から伐出した木材を国衛に献納した功績で伊賀国司か
らこの地を私領として賜り、子の近俊の代になって竜口を両分して南半が大和国に移され南竜
口(大和)・北竜口(伊賀)となった。
以後、南北竜口の境界争いは800年の長きにわたり、明治になって最終的に解決した。